昭和46年12月4日 朝の御理解



 御理解第71節「ここへは信心の稽古をしにくるのである、よく稽古をして帰れ、夜夜中どういうことがないとも限らん、おかげはわが家で受けよ、子供がある者や費用取りは出てくるわけにはゆかん、病人があったりすれば、捨てておいて参ってくることは出来ん、まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけ」と。

 信心の稽古をさせて頂くと、ん~、一心にならしてもらう稽古、え~、真心にならせて頂く真心とは、真心とはと、あの真心、を、とはというところに焦点をおいて稽古をさしてもらう、え~、真とはと、ね、いわゆるその真とか真心とか、または一心とかと、え~、私はそういう、う~稽古をすることと、ね、信心の稽古というのは、一心とは、真心とは、ね、いわゆる、え、一心の真を捧げて願うと、え~、信心をさしてもらって、願うことは沢山あります、そこでその願うということが、その内容として求められるものが真であり一心であります、ね、そこで私の一心とは私のまごこっ、真とは真心とはというものをやはり色々教えを頂いて、え~検討して行くと、まあ私は信心の稽古とはそういうことだと思うんですよ、ね、ですかそこんところに本気で、え~、取り組ましてもらう、焦点をそこにおいて信心の稽古をさしてもらう、あぁそこからなるほど一心を立てれば本当にこれが真の真心であろうかと、思う心の、お~、状態というものが、えぇどんなに有り難いものかと、また有り難い体験が生まれてくるかということを、まあ稽古しますわけですね、え~、それも、えぇ、まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけと、まめな時と、とは元気な時、その前に、例えば、夜夜中どういうことがないとも限らぬ、おかげはわが家で受けよと、子供がある者や、費用取りは出てくるわけにはゆかぬ、病人あったりすれば、あ~、捨てておいて参ってくるわけにはいかぬ、ここんところはまあ色々な、あぁ難儀とか色々な事情、ね、色んな事情があり、お参りが出来ない事情があれば、あぁというわけですね、それを捨てておいてはというところ、ところで実はその色んな事情がある時、ね、例え病人や、あぁ色んな、あぁ例えば難儀を感ずるような事情がある時に、帰って信心になる人が多いですね、まめな時というのは、元気な時と言うか、ね、なんでもない時、別に神様に仏様にということの必要でない時にはなかなか信心の稽古は出来ません、けれども返って、え~、色んな難儀を感ずる時に、信心の稽古が出来ると言うか、体験がはっきり、はっきりするんですよね、そういう時には、なんでもない時には、そこにおかげを受けてもそれをおかげと、おぉ~はっきり把握出来ない、話しを聞いてなるほどという程度には分かってもです、実感として神様の働きというものの、素晴らしさというようなことがね、切羽詰っておる時は難儀とか、普通は、なら例えばお参りが出来ないという中に、そのお参りをさして頂くということがです、確かにその一心の真が出しやすいのじゃないでしょうか、一心、一心になるとか、ね、またこれは神様にお願いするからにはこげな心掛けじゃいかん、やっぱり真にならなければ真心にならなければと、いうことになってくるんですね、ですからそこに、えぇここでは、あぁ、ね、そういう参りにくい時には参るわけにはいかんから、なぁんでもない時にしっかり参って信心の稽古をしておけとこうおっしゃっておられるけれども、実は何でもない時にはなかなか信心の稽古が出来ないのだ、それはまあ一つの過程ですね、そういう難儀な中から、え~、御神縁を頂いて、そして、え~おかげを受ける、いわゆるその体験がはっきりしてくる、なるほど神様じゃなぁ、やっぱりお願いしなければいけんのじゃなということが分かってくる、ね、分かって来る、え~、そこは、その辺からですね、これは信心は本気で稽古しとかなければいけないなと、本当の信心の稽古の姿勢というのは、まあその辺からだとこう思うですね。
 いわゆる先頃から頂きますようにね、いわゆるお礼、お礼参拝ですよね、お礼のために朝起きをする、お礼のために朝参りもする、お礼のために御用もさしてもらわなければおられないというような、いわゆる信心が生まれてまいります、それは、そのところに、一番大事なのが、いわゆる信心辛抱だとこう思うのです、辛抱の稽古、ね、え~、3代金光様も「神信心には、あぁ、辛抱することが一番大切でございます」とおっしゃっておられる、もう本当に簡単な、それもあたりっ、へい、平易なことのようですけれども、これはもう大変な、あぁ、これはご自身があのような信心辛抱しぬかれてはじめて、えぇ、そこから体験を、を、お受けになられて、教えておられる言葉でありましょう、神信心にはもう辛抱することが一番大切、何が大切と言うても、辛抱することが大切ですよと、これは辛抱しぬいてそこにおかげを頂いた者でなからなければ、実は言えないほどしの素晴らしいことなんです、ね、ところが、私共の場合はその、おぉ、辛抱がなかなかしきれない、そこんところを3代金光様は、「泣く泣く」とおっしゃっておられる、泣く泣くでも辛抱されたという、ね、その辺のところを私は、信心の稽古と言えば、あぁ、真とか真心とか、その追求、または一心とかというものの追求、だからそれをいかに、例えば、あ~、理論的に追求して分からして頂いてもです、それに辛抱が伴わなかったら、駄目なんです、ね、一心とはこういうことだ、真とはこういうことだ、真心とはと、一心の真を捧げるということはこういうことだと、まあ稽古により色々分からしてもらう、そういういきっ、生き方。
 分からして頂いたことはです、いよいよその稽古の、え~材料になるものをです、えぇそこに頂きますわけですから、ね、そこんところをいわゆる辛抱しぬかせてもらう、信心辛抱しぬかせて頂いて、その間には辛い事もある、それこそ泣きたいような事もあるけれども、そのところを泣き泣き辛抱して行くところから、生まれてくるのが体験、ね、一心、真、真心と、で神様へ向かう、しかもそれが辛抱しぬかせて頂かないと、そこに体験は生まれてこない、ね、思う事もなくなり、欲しいものもなくなるというような体験が生まれておられる、ね、いわゆる我情我欲が取れて行く、ね、始めから我情我欲を取る稽古なんて、まあ思いますけれどもね、なかなか出来るこっちゃありません、ね。
 例えば今私共の、ん、愛子が、あの、断食修行に入ってもう八日、か九日になりますでしょうか、もう、おぉ、水も、とりません、もう牛乳もとっ、飲みません、あの牛乳なんかを、まあ日にち後日後飲んですると楽ですけどね、けどもう何にもとらない、本当の断食をやってます、そりゃその何ち言うか、(?)が、心が、すっきりしてまいりますし、えぇ先日ツツミさんが申しましたように、今月今日で一心に頼めとこうおっしゃる、そのことがね、本当に今月今日一心に只今を願い縋っていかなければおらないということ、ということをまあこれが本当のもんかどうか分からんけれど、それをもう刻々感じておるということです、ね、確かにだから断食、そういう修行でもさせて頂いておるとです、そういうものを本当実感として、分かりますけれども、おぉ、尊いことですけれども、ならそうまた1ヵ月も2ヶ月もというわけにはまいりません、ね、また次のその、いわゆる腹いっぱい頂かせてもらうという時もある、そうすると今月今日只今というものが薄らいでくるわけ、ね、だからその、そのいきなりじゃないけれども、やはりそれが薄らがんということがです、それが段々本当なものになっていくということをです、私は日々、いわゆるまめな時信心の稽古をするということ、何でもない時に信心の稽古をするということ、ね、それも自分の例えば色んな問題をです、一心を持って真を持って真心を持って、いやほっ、これはどうすることが本当かといったようなところに焦点をおいて、そこんところをいい加減にしないということが、自分の手元のところを大事にするという、なら、現金光様がおっしゃっておらますように、ね、仕事の現場で、しかも、おぉ手元のところを大事に、それぞれの仕事の現場において、自分の手元のところをです、ただ漠然と成すというのではなくて、じっ、同じとことの事を成すでもです、事務員は事務をとるだろう、商売人は商売をするだろう、お客さんを相手に、ね、お百姓さんは、あぁ、(?)を握らせて頂く、その事の中に、その手元のところにです、一心の真という一心を持って、真心を持って、それを行じていくというところからです、生まれてくる体験、これならば、日常の中に稽古が出来る、そしてそこに生まれてくる体験というものがです、はぁ有り難い、素晴らしいということなんです、ならそういう稽古をさして平易なごたるけれども、ね、それはその、たまには泣く泣くというようなこともあるということ、もう辛抱しきれないような時もあるということ、いい加減にするような時、しようとする時もあるけれども、そこを実意丁寧、実意丁寧神信心を持って(?)、くんでいく時に、心の中から有り難いものが湧いてくる、ほどしの、おかげと言うか、体験が生まれてくる。
 けど皆さんもおかげを頂かれました、えぇ三井教会の、ん、六十五年の記念祭、ね皆さん沢山、ここからもおかげを頂きました、ね、これは私は、もうだいたい、あぁその、人間心を、を、使わないのですけれども、これは本当、本当言うたらつか、いよいよ親教会であってもみっ、その三井教会であっても、親先生のことであっても、本当人間心が、を、使わんですむほどしのおかげをですね、頂く稽古をさせて頂かんならんなともう何時も感じますが、今度なんかも私は本当にそれを感じましたですね、もうお参りになった方はご承知のようにもう本当に、盛大で、しかも行き届いたお祭でございましたよね、今までの私だったら人情を使いすぎてからもう本当にそりゃ、あ~、使いすぎて返って結果は良くないといったようなことでしたね、例えばお供えはお供えでも、もうまるきり自分が一人でせんならんごと思うてその、一生懸命がんばりよった、ね、それだけのことじゃない、もう本当に、いわゆる人間心で、え~、成さして頂いておることが、結果によっては、あぁ、それこそ、あぁ、当時の椛目ですよね、椛目がもうなんでんかんでんやる、一人でするけんでんもう全然、そういう出る幕がないというような、その影口さえ聞くような結果があったことですね、ところが今度という今度は、私共はもう、おぉ相談も勿論受けませんでしたが、え~こちらがここをさせて頂こうということだけしかさして頂かなかった、それ見て御覧なさい、もうしもそれこそ、おぉ、めっ、銘々が、やはりい~、真心を結集して出けたと思われるようなお祭で、問題は有り難い勢でのお祭が出来れば良いのですからね、やはり皆の者が、その気になってさして頂いた方が神様がどれほどお喜びになるか分からないのだ、ね、本当にもっともっとここんところへ人間心を使わんでおかげを頂かなきゃいけんなと、ね、本当にあの人間心を使わんですむおかげを頂いておるけれどもです、ね、場合によっては、使わなければならんけれども、その使うことですらもです、使わなきゃでも、出来れば段々段々神乍らな生き方で行けれるおかげを頂きませんとね、人間の知恵やらさいっ、今朝方思いますことは、もう人間の知恵とか力とか才覚なんかってもう本当にそれはね、もうたえないものです、本気で障子一重がままならぬ人の身、という自覚を持って、本当に自分の力じゃないことを分からしてもろうて、もう前面的に神様に縋る願うという生き方にならなければ、本当の助かりはありませんよ。
 昨日もあの、(?)(?)であります森先生が、教師代表として祝辞を述べておられました中に、あちらは元タイレンの、松山という大変徳のある先生のお弟子さんです、その師匠が私に教えておってくれておる中で、お取次ぎをするなら、ね、「人心を持ってしては人は助からん」ね、「神心を持ってせよ」と、そういう意味で、ここの荒巻先生は人心を使わない、実に神心の強い人だという意味のことを話しておられましたですね、まったくそうです、人心というのはごくそれだけ、まあ申しますなら人間心、人間の、おぉ才覚というものはもう実にそりゃたわえないことなんですほんと、もうおかげ頂いてみて分かるです、ね、ですからいわゆる神心を持って、てしなければならないと、言わば弟子の森先生にこれをもう懇々と繰り返し教えておられたということなんです、ね、だから私共その、そん(?)の、まあ稽古ということですけれども、もうならこれは私と親教会の場合であってもね、私がどんなに、例えばうんなら、お供えが少ないと、例えばいたしましょうかね、合楽はどうしてそげん、(  ?  )、っちてから、俺んとこにはこんなに少ないと、いうようなことを相手に思わせんですむようなおかげを頂かにゃいけんわけです、ね、はぁほんにこの頃から、あ~、長男の結婚式もあったし、なにやらかにやらで随分と、(?)もあっただろうから、そうだろうと例えば親先生が思うて下さるようなね、私にならにゃいけんのです、ね、けれどもそこんところを私共が、その~、より良い、良い生き方をしてもらおう、良く、言わばより良く見てもらおうと思うもんですから人間心を使わなければならない、そしてならなるほどその時には、「はぁ本当に合楽が一生懸命やってくれるけん」っち言うて喜びよりなさる、ってもですね、その後になら、聞く事はどういうことかと言うと、なら、前の記念祭のようにですね、当時の椛目ですけれども、椛目がなんでんかんでん一人でしてしまうから、自分達の出る幕がないといったような不平不足を皆に持たせなければならない結果が生まれてくるわけ、ね、本当に、人心というのはね、人間心というのは、目先のところは非常に、綺麗ごたるけれども、その後が良くないですね、これを神乍ら、神心を持ってしてもらうと、そん時にはあんまり良くないごとあるけれども、後になればなるほど段々良くなってくるのです。
 どうでも一つ、本当に、いわゆるそういう稽古をさして頂かなければならんなとこう思います。
 人心には人心だけのこと、ね、神心を持ってすれば、神様の働きというものはどれだけか分からない、久留米の先代が、おっしゃっておられたと、ことですけれどもね、「人間の一握りっちゃこれだけばい」とおっしゃった、「けれども神様の一握りと言うたらどれだけあるやら分からん」とおっしゃった、ね、そのどれだけあるやら分からん方のおかげを頂かせて頂く稽古をしなければいけんのです、ね、ですからその事その事をです、はぁこれが自分の真心か、一心か、ね、または親切か、神様に喜んで頂くような、考え方の元にそれがなされておるかと、というようなことをです、検討しながら、自分の手元のところでその問題の一つ一つをそういう実意さを持って、取り組ませて頂くところから、生まれてくる体験、そしてなるほどこういう生き方でなからなければ嘘だと分からしてもらう、そこから本当の信心が出来る、そこから本当の信心の喜び、いわゆるお礼参拝さしてもらわなければおられないといったような、信心者になることが出来るのです。
 昨日の、朝の御祈念の後に、久留米の佐田さんが、ご承知のようにお父さんがずっと、おぉ~、具合が悪いですから、お母さんはそれにかかり、かかっておられる、ご主人はお仕事の方であのように忙しい、お方、それでもやはり、え~善導寺のおかげを頂きたいけれども、おぉ日田の方の、佐田さんの娘さんがお嫁に行っておられる方のところの、お~なんか、ご奉仕がある、しかも丁度同じ時間の十時半から、朝の、もう思いは二つ心は、あぁその体は一つというところなんです、「親先生どうさして頂いたら良いでしょうか」って、ね、「そりゃぁあんた、例えばあなたの、言うならば、ご主人ご兄弟の家の、ご奉仕ですから、ね、そこはやはり(義理?)というものがあるから、やはり日田のにおいでられる方がほんなこっちゃろ、お初穂だけお託けしてから、善導寺の方はご無礼しなさい」と私はこう言うとった、ね、ところが佐田さんの奥さん、そこんところをですね、に取り組まれたわけですよ、はぁ親先生はおっしゃるけれども、それはどこまでも義理である、日頃頂いておる教えは義理とか人情じゃないと、信心ばかりは神情一つでいくのだ、人間の事と、神様の事が二つあったならば、ね、神様事、人間事は、それはそん時には悪口を言われてもどうでも、それを捨ておいてでも、神様の方をとるのが本当だと教えられておるもんですから、どっこい引っかかるわけ、ね、その辺のところに佐田さんのいわゆる信心の、それこそねんもく、やく、(?)のようなものを感じますね、何時の場合でも、ね、「なら先生がおっしゃったからならそうしましょう」とは、言われない、そこにいよいよ取り組まれるわけです、そこでまあ一生懸命、願うことにもなり、ね、どうかしておかげを頂きたいという願いに、言わば、まあ燃えられたと言ったら大げさですけれども、ね、それこそ、(?)の方もどうでん願う、ただ神様の方へは心は向いてしまっておる、どうかしてお参りをしたい一念で帰られた、そしたら、昨日は(?)さんが、「今日は、あの、商売の方の、仕事の方の段取りが何時よりも早くついて、もう俺がいなくても出来そうだから帰ってきた」と、「私が日田の方に行くからお前が善導寺のお広前へおかげを受けてくれ」と言われたと言うて、え~善導寺の方におかげを頂いておりました、ね、これは私はあの、お~、一心に神様へ心を向けられる、その心を(?)ておられるその状態の中に神様の働きがそういう風に現われてきたわけですね、体験が、ね、例えばここに、色んな事情があれば、もうしかたが無い、ね、子供がある者や病人がある者はもう放っておくわけにはいかん、だからまめな時に信心の稽古をしとけとおっしゃるから、いかにもそういう時には、こう、おぉ、自分の都合ということを先に立てて、え~、のような感じがしますけれども、この辺のところに、例えば何と言うですかね、神様の心のもう一つ向こうの方に本当の神様の心があるといったようなものを感じます、もう参らんでも良いぞと教えておられるかと思うとです、その向こうには、一つ参られるようなお繰り合わせを頂け、そこに体験があるのだと、体験を、おぉ、積んでくれといったような神様の願いを、ね、言うならこの、御教えの、この~、教典のまあいっちょ向こうの裏にですね、この紙の裏にですね、神様の心があるものを感じます、ね。
 「神の言うことにも、ね、引いたり足したり掛けたり割ったり」というような御教えを、私は昔頂いたことがあります、ね、神様が「引け」とおっしゃったから、引いただけじゃいかん、足してみなければいけん、でないと本当の合うた答えは出てこない、もうそりゃ割ったらよかばいと、言われてもです、その時には掛けてみる、そしてその自分の、思うておる、それが本当かという、言わばそこに答えをみてからでなからなければ次の行動に移らない、はっ間違っていなかったなという生き方、そういう稽古をまあ合楽の皆さんは、ん~、良く出来ると思うですね、私もだいたいそういう生き方なんです、ね、引いたり足したり掛けたり割ったりさして頂くところにいわゆる信心の稽古があるわけです、そして最後に、「まめな時ここへ参って信心の稽古」何でも無い時に、信心の稽古をしとけということは実を言うたら何でも無いという時の方が、実を言うたら多いのですから、ところが多い何でも無い時の信心をおろそかにして、何かさあせりひがつくような事になってきてから、信心の稽古をするというのが普通、まあ信心の稽古と言うよりも、お願い信心でしょうけれどもです、ね、そういう中から、体験を通して、御理解71節の、御教え、この御教えのもう一つ、ここに文字なら文字、紙なら紙の印刷がしてあるが、その印刷のしてあるまあいっちょ向こうの方の、この字に現われておる向こうのもの、これを桂先生のお言葉で言うと、「言外の現」とおっしゃった、ね、もう一つ向こうのものをです、把握していくといったような、信心の稽古、ここへは信心の稽古へ行くと、ただ話を聞くだけじゃいかん、ただお参りだけで稽古にはならん、やはり手元のところを本気で見極め、取り組ましてもろうて、これは一心か真か、とまず検討さして頂きながら信心の稽古をしていくということ、ね、そこから例えばなら佐田さんの例を取りましたが、なるほど神様が、ね、日田の方にも、顔立てて下さり、ね善導寺の方にも顔を立てて下さるというほどしのおかげになってきた、ね、私はそういう例えばその~、おかげを受けられるのが金光様の御信心だと思うですねだいたいは、ね、あちらも立ちこちらも立ち、そして自分自身も立ちと、立つというようなおかげ、片一方を立てたら片一方が立たないといったような、ね、(?)の繁右衛門のあの言葉じゃなけども、「親を立てれば、ね、君に立たず、君の方を立てれば親の方に立たず」それではないです、一心の真を捧げて、一心の真を持って、するならば親も立ち君の方も立ち、そして自分自身も立って行けれるという、そういう稽古をね、私はさして頂きたいと、そしておかげを頂いて行く、まめな時、何も平穏無事の時に、本当に、という一番私共に、ん~、ね、例えばそういつもかつも病気しとってるのじゃない、病気というのは、例えば一年(?)おきに、本当にわずかな時間、ね、だからほとんどはまめな時であるから、そのほとんどのまめな時にしっかり信心の稽古が出来るおかげを頂きたいもんだと思います。
 今日、御理解71節の、うん、この、お~、文字に現われておる、そのまあ一つ向こうのところをね、今日は聞いて頂いたつもりであります、より言外の現のところをです、ね、稽古さして頂きたいと思うですね。
                                   どうぞ。


入力者:誠輝